youの手記

隙自語(隙の無い自分語り)

鉄道が好きです。

「オタク」と「ファン」は似て非なるものであるというのが持論だ。

その差は「熱量」にあり、その関係は「オタク」>「ファン」であると考えている。

曖昧だが、オタクは「熱中している人」、ファンは「好きな人」というイメージだ。

オタクはより多くの熱量をかけている、というと聞こえはいいが、その熱量故に周りが見えなくなり、迷惑をかけていることに気が付かない(フリをしている?)のもしばしばである。

例えば「鉄オタ」。最近でも山手線E231系が引退間近になったとき、一部の鉄オタの線路侵入やマナーの悪さが際立ち、JRの判断でE231系の引退が早まるという前代未聞の事態が発生した。

引退間近の車両を撮りにホームに押し寄せる彼らは特に「葬式鉄」と揶揄される。しかし「鉄オタ」の分類など一般人は気にしない。一部の「撮り鉄」のマナーが悪くても「鉄オタ」全体の印象が下がってしまう。これは鉄道に限った話ではないが、一部の人間の行いで全体が悪くみられるのはよくあることだろう。

まあ標本調査はそれが原理だし...。

 

 

僕は非常に飽きやすい性分で、興味がある事柄がコロコロ変わる。「趣味」と自信を持って言えるものも思いつかない。しかし鉄道だけは幼少期から唯一好きな物である。僕はグッズを買ったり、遠くまで乗りに行ったり、写真を撮りに行ったり、ラストランに乗りに行ったりは基本的にしない。

なぜならインターネットという便利なものがあるからで、大抵の情報はネットで手に入ってしまう。わざわざ外に出て金を払うことなく楽しめるのがいいところだ。

僕は分類するなら「音鉄」で、車両の走行音や駅で流れる発車メロディーなどを聴いて楽しんでいる。今やyoutubeには十分過ぎるほどの「音動画」があり、外に出なくても楽しめてしまう。いい時代だ。

 

しかし僕は自分を「鉄オタ」とは名乗らない。オタクを名乗るほどの熱量が無いのは自覚しているし、前述のとおり悪い印象を抱かれる可能性もあるからだ。「鉄道ファン」と名乗ってもいいのだが、この界隈で「鉄道ファン」というと月刊誌を思い浮かべる人が多いので名乗らない。

近年サブカルチャーの普及によってオタクの概念が一般化しているのは事実である。例えば鬼滅の刃。LiSAが紅白で紅蓮華を歌い、情報番組では髪を鬼滅カラーに染める人が取り上げられた。そういう人たちを疎まず、認められる社会になるのはいいことだと思う。しかし、一部の鬼滅の刃オタクが「これ鬼滅のパクリじゃん」などと意味不明な主張で他者を攻撃し、迷惑をかける行為もTwitterで見受けられる。

一般社会が「変わったものが好きなオタク」を認めるように、オタクも「〇〇に興味が無い一般社会」があることを認めなければならない。それが「多様性」でしょ?

その多様性も「お互い自分たちに害が及ばない」という前提の下成り立っているものであると思う。つまりコミュニティーの外に棘を向けてはいけない。楽しむなら他所に迷惑をかけず、内輪で楽しむべきである。

 難しいのが「にわか」の存在だ。言うなれば一般社会からコミュニティに足を突っ込みかけている人たちで、完全なオタク・ファンに成り切れていない人たちだ。気持ちはわかるのだが、新しいものを知った喜びを無理矢理押し付けたり、中途半端な知識のままで他所にもコミュニティにも迷惑をかける行為はあちこちで見られる。

しかし人間だれしも最初はにわかである。だからこの言葉を贈ろう。

半年ROMれ

自分もそうだが「にわか」が「オタク・ファン」を名乗る時はコミュニティの一員であることを理解し気を付けなければならない。

 

「鉄オタ」の話に戻ろう。葬式鉄の「罵声大会*1」や撮り鉄の敷地内不法侵入などは鉄道好きから見ても気持ちのいい行為ではないし、列車の運行の妨げとなって一般の利用者に迷惑がかかる。

このようなことが無くならない限り、「鉄オタ」が社会に認められることは無いと思っている。しかし、迷惑行為が無くなることはないだろう。なぜなら張本人たちは「鉄オタ」がどう思われようと自分さえ良ければそれでいい人たちなのだから。

お前らはガルパンを見習え。

 

それでも僕は心の末端の末端で、自分が鉄オタだと自信をもって言える日が来るのを待っていようと思う。それまでは熱量を蓄えつつ、「鉄道が好きです。」と控えめに名乗ることにする。

 

*1:ラストランや特別列車の運行時には、良い写真を撮るため構図の邪魔になる人に向けて鉄オタ同士で罵声を浴びせあう光景がよく見られる。JR東も対策を取ったことがあり、「トランスイート四季島」初運行時にはホームにはメディア以外の立ち入りを禁止、さらに反対側ホームにわざわざ回送列車を置いて四季島を見えないようにして鉄オタを排除した。