劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンはいずれ癌に効くようになる
初日に観に行って記憶が確かなうちに感想文書きます。ネタバレ有です。
夜中に思うまま書いたので読みづらいかもしれませんがご承知ください。
Twitterでも書いたんですけど映画館で観る映画ってやっぱり格別なんですよね。遮音されたスクリーンだと「無」が聞こえるんです。自宅で映画観てると巨大な画面とソファは用意できたとしても、どうしても雑音や環境音が入って映画に没入できないってことがあると思います。僕はあります。映画館だとそれが無いんです。違う映画ですけどFate HFの「影」のシーンとか、映画館で観ると無音が聞こえるんです。
映画館で観るということは、それほどに無駄な情報をシャットアウトして没入感を得られる環境に金を払ってるんだと思ってます。
僕のような涙腺ガードが堅い人種にとって没入感は「泣ける」映画で泣くためには欠かせないと思ってるので、今回のような映画は尚更映画館で観る価値があると思います。
だからなおさら「スクリーンの前を横切られる」とか、「上映中にスマホいじる」とかマナーが悪い客に腹が立つ訳です。アマプラでも見てろ。
アニメ版、外伝と観てきて、ギルベルト少佐がいなくなって「愛してる」がわからないと言っていたヴァイオレットの物語がどう締めくくられるのか、気になっていましたがこの劇場版を観てスッキリしました。
舞台は電波塔が建設中のライデン。映画冒頭で既にヴァイオレットは国中から慕われるドールになっていて、祭で海に捧げる祝詞(?)の執筆者に選ばれるまで成長しています。
それでも芯の部分は変わってなくて、ギルベルト少佐の話になるとすぐ取り乱す一途な部分が見ていて胸をギュッと掴まれる感じがします。
細かいところですけど祝詞を読み上げる場面でボートに乗ってた人たちがオールを立てる動作は「櫂立て」と言って敬礼の意味があります。商船系の学部に身を置く者として感心しました。
映画の中盤、ホッジンズ社長がある宛先不明の手紙を発見しますが、その筆跡がギルベルト少佐のものに似てるんじゃないか?というところから物語が急展開します。
個人的にこのあたりで「えっ...」と思いました。「死んだと思われてたあいつ、実は生きてました」パターンはありがちですが、ありがちなだけに今作もそのパターンか...とこの時はちょっと残念というか、不完全燃焼だな、というか。そんな気持ちになりました。
もちろんこの話はヴァイオレットの耳にも入り、少佐がいると思わしき島に社長と行く訳です。少佐はジルベールと名前を変えて生きていて、島で学校の教師をしていました。
二人が学校に着くと、はやるヴァイオレットを抑えてホッジンズ社長がまず一人で会いに行きます。
その間校門でヴァイオレットは、本当に少佐なのか、少佐だとして何から話すべきか、など悩んでいて、生徒からも「ジルベール先生」がどんな先生なのかを聞いて目を輝かせていて、その姿がほんとに愛らしいんですよね。
「ああ、このまま再会して終わりかな」、その頃の僕はそう思ってたと思います。
しかし、ギルベルトは「自分がヴァイオレットを不幸にした」「ヴァイオレットには会えない」と一蹴します。実際にヴァイオレットが家の前まで押しかけても全く動じず「君にはもう僕は必要ない」「帰ってくれ」と会おうとしません。
結局顔を合わせることは叶わず、ヴァイオレットの瞳から光が無くなってしまって仕事が溜まっているヴァイオレットは翌日の船便で帰ると決めてしまいます。
扉一枚の向こうにあれだけ会いたかった人がいるのに会えないヴァイオレットを見てるとこっちまで辛くなってきて、さっきの「残念」なんて気持ちはもう無いです。ただ辛い。
少佐の「帰ってくれ」を上官の命令として受け取って「あれだけ何年間も少佐を慕って少佐に会いたがってた自分」を殺して前を向くことを決めたんだと思うんですよ...。後ろを振り返らず一人の人間として前に進もう、と。滅茶苦茶胸が締め付けられる...。
船に乗る前に、ヴァイオレットは少佐に宛てた最後の手紙を書いて渡してもらうことにしました。今まで少佐のことを思い出しては手紙を書いていたヴァイオレットが、最後の手紙を書くんですよ。
内容はギルベルトへの感謝と決別。難しい文章は一切なく、ひたすらに「ありがとう」とつづられていました。
今まで伝えたかったこと、話したかったことがたくさんあったと思います。でも、国中から慕われるドールとして様々な手紙を書いてきた彼女が、国の代表として海への感謝の祝詞を一生懸命調べて考えて書いた彼女が、最愛の人に送った最後の手紙があれだけの言葉にまとめられてるんですよ。
「言葉じゃ言えないことも、手紙なら伝えられる」そんな台詞があった気がします。しかし手紙には文字数に限りがあります。しかし同時に言葉のように後引きもありません。ヴァイオレットが前を向いて進むための決別に手紙を書いた理由が見えた気がします。
ギルベルトがこの手紙を読んだあたりで視聴者は「まだ間に合うからはやく駆け出してくれ!!」と思ったことでしょう。僕も思いました。
たまらず駆け出すギルベルト。
さらに反則技。突如流れるアニメ版ED『みちしるべ』。こんなんズルい。
そしてギルベルトが船に向かってヴァイオレットの名前を叫ぶシーンで僕の硬い涙腺が緩みました。全身がブワッってなる感覚は生まれて初めてかもしれません。
その後再会したものの涙が止まらないヴァイオレット。あれほど泣くヴァイオレットは初めてだと思いますが、ここの石川由依さんの演技が心を揺さぶってきます。凄かった。
確かに「生きてました」エンドですが、それまでの演出、描写が素晴らしくてそんな野暮なことはどうでもよくなってました。映画中盤の頃の自分を殴りたい。完全燃焼です。終わったあとの頭の中は「良かった...良かった...」それだけです。
エンドロールの時間はその思いを反芻する時間でもあります。京都アニメーションの事件があってからちゃんとエンドロールを見るようになりました。放火事件で亡くなられた方の名前もあったのでしょう。営業や物販に携わる方の名前も流れていたんだな、と新たな発見もあるものです。エンドロールは最後まで観るものですね。
上映後、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンのHPを見てみました。関係者の方々のカウントダウンコメントの重みを感じ、「愛する人へ送る、最後の手紙」の意味がわかり感傷に浸ります。
メニューから「キャラクター」のページを見ると、ヴァイオレットとギルベルトしか載ってないことに気づきます。初めから二人の物語だったんだな、ホッジンス社長かなり出番があったけどな、と思いました。
するとアニメ版の頃からのホッジンス社長の描写が視聴者に重ね合わせたものだと今更気づくわけです。
視聴者は作品を通してヴァイオレットの成長を「保護者」のように見守っています。そして物語の局面で一喜一憂します。しかしヴァイオレットの行動に影響を及ぼすことはできません。
ホッジンズ社長がヴァイオレットを特別に気に掛ける様子は作中しばしば目にします。そしてディートフリート大佐から「保護者気どりが」のようなことを言われた時にはディートフリートにつかみかかっていました。
さらに劇中では、「そういえば僕が思ったことホッジンスがそのまま言ってくれてたな...」と思わずにいられない行動が目立ちます。
意地でもヴァイオレットに会おうとしないギルベルトに向かって「大馬鹿野郎!!」と叫んだり、ギルベルトに会わず帰ろうとするヴァイオレットを心配したり、最終的にギルベルトの元に残ったヴァイオレットを我が子のように想ってヴァイオレットロスになったり、まるで視聴者の心情を映したかのような行動をとります。
しかし悲しいかな、いずれの場面でもホッジンスの言葉によってヴァイオレットの意思が揺らぐことはないのです。
ヴァイオレットとギルベルトの二人の物語にホッジンス社長という視聴者の代弁者を保護者役として加えることで、より没入感を得られたのだと思います。
京アニが事件から立ち直る最中に製作された作品である今作、製作陣の努力が伝わってくるとても素晴らしい映画だと思いました。
映画の特典は「ベネディクト・ブルーの菫」でした。外伝のもそうだけど他のも読みたい...。メルカリで高額で買うのはアレだし書店で売ってほしいな...。