劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンはいずれ癌に効くようになる
初日に観に行って記憶が確かなうちに感想文書きます。ネタバレ有です。
夜中に思うまま書いたので読みづらいかもしれませんがご承知ください。
Twitterでも書いたんですけど映画館で観る映画ってやっぱり格別なんですよね。遮音されたスクリーンだと「無」が聞こえるんです。自宅で映画観てると巨大な画面とソファは用意できたとしても、どうしても雑音や環境音が入って映画に没入できないってことがあると思います。僕はあります。映画館だとそれが無いんです。違う映画ですけどFate HFの「影」のシーンとか、映画館で観ると無音が聞こえるんです。
映画館で観るということは、それほどに無駄な情報をシャットアウトして没入感を得られる環境に金を払ってるんだと思ってます。
僕のような涙腺ガードが堅い人種にとって没入感は「泣ける」映画で泣くためには欠かせないと思ってるので、今回のような映画は尚更映画館で観る価値があると思います。
だからなおさら「スクリーンの前を横切られる」とか、「上映中にスマホいじる」とかマナーが悪い客に腹が立つ訳です。アマプラでも見てろ。
アニメ版、外伝と観てきて、ギルベルト少佐がいなくなって「愛してる」がわからないと言っていたヴァイオレットの物語がどう締めくくられるのか、気になっていましたがこの劇場版を観てスッキリしました。
舞台は電波塔が建設中のライデン。映画冒頭で既にヴァイオレットは国中から慕われるドールになっていて、祭で海に捧げる祝詞(?)の執筆者に選ばれるまで成長しています。
それでも芯の部分は変わってなくて、ギルベルト少佐の話になるとすぐ取り乱す一途な部分が見ていて胸をギュッと掴まれる感じがします。
細かいところですけど祝詞を読み上げる場面でボートに乗ってた人たちがオールを立てる動作は「櫂立て」と言って敬礼の意味があります。商船系の学部に身を置く者として感心しました。
映画の中盤、ホッジンズ社長がある宛先不明の手紙を発見しますが、その筆跡がギルベルト少佐のものに似てるんじゃないか?というところから物語が急展開します。
個人的にこのあたりで「えっ...」と思いました。「死んだと思われてたあいつ、実は生きてました」パターンはありがちですが、ありがちなだけに今作もそのパターンか...とこの時はちょっと残念というか、不完全燃焼だな、というか。そんな気持ちになりました。
もちろんこの話はヴァイオレットの耳にも入り、少佐がいると思わしき島に社長と行く訳です。少佐はジルベールと名前を変えて生きていて、島で学校の教師をしていました。
二人が学校に着くと、はやるヴァイオレットを抑えてホッジンズ社長がまず一人で会いに行きます。
その間校門でヴァイオレットは、本当に少佐なのか、少佐だとして何から話すべきか、など悩んでいて、生徒からも「ジルベール先生」がどんな先生なのかを聞いて目を輝かせていて、その姿がほんとに愛らしいんですよね。
「ああ、このまま再会して終わりかな」、その頃の僕はそう思ってたと思います。
しかし、ギルベルトは「自分がヴァイオレットを不幸にした」「ヴァイオレットには会えない」と一蹴します。実際にヴァイオレットが家の前まで押しかけても全く動じず「君にはもう僕は必要ない」「帰ってくれ」と会おうとしません。
結局顔を合わせることは叶わず、ヴァイオレットの瞳から光が無くなってしまって仕事が溜まっているヴァイオレットは翌日の船便で帰ると決めてしまいます。
扉一枚の向こうにあれだけ会いたかった人がいるのに会えないヴァイオレットを見てるとこっちまで辛くなってきて、さっきの「残念」なんて気持ちはもう無いです。ただ辛い。
少佐の「帰ってくれ」を上官の命令として受け取って「あれだけ何年間も少佐を慕って少佐に会いたがってた自分」を殺して前を向くことを決めたんだと思うんですよ...。後ろを振り返らず一人の人間として前に進もう、と。滅茶苦茶胸が締め付けられる...。
船に乗る前に、ヴァイオレットは少佐に宛てた最後の手紙を書いて渡してもらうことにしました。今まで少佐のことを思い出しては手紙を書いていたヴァイオレットが、最後の手紙を書くんですよ。
内容はギルベルトへの感謝と決別。難しい文章は一切なく、ひたすらに「ありがとう」とつづられていました。
今まで伝えたかったこと、話したかったことがたくさんあったと思います。でも、国中から慕われるドールとして様々な手紙を書いてきた彼女が、国の代表として海への感謝の祝詞を一生懸命調べて考えて書いた彼女が、最愛の人に送った最後の手紙があれだけの言葉にまとめられてるんですよ。
「言葉じゃ言えないことも、手紙なら伝えられる」そんな台詞があった気がします。しかし手紙には文字数に限りがあります。しかし同時に言葉のように後引きもありません。ヴァイオレットが前を向いて進むための決別に手紙を書いた理由が見えた気がします。
ギルベルトがこの手紙を読んだあたりで視聴者は「まだ間に合うからはやく駆け出してくれ!!」と思ったことでしょう。僕も思いました。
たまらず駆け出すギルベルト。
さらに反則技。突如流れるアニメ版ED『みちしるべ』。こんなんズルい。
そしてギルベルトが船に向かってヴァイオレットの名前を叫ぶシーンで僕の硬い涙腺が緩みました。全身がブワッってなる感覚は生まれて初めてかもしれません。
その後再会したものの涙が止まらないヴァイオレット。あれほど泣くヴァイオレットは初めてだと思いますが、ここの石川由依さんの演技が心を揺さぶってきます。凄かった。
確かに「生きてました」エンドですが、それまでの演出、描写が素晴らしくてそんな野暮なことはどうでもよくなってました。映画中盤の頃の自分を殴りたい。完全燃焼です。終わったあとの頭の中は「良かった...良かった...」それだけです。
エンドロールの時間はその思いを反芻する時間でもあります。京都アニメーションの事件があってからちゃんとエンドロールを見るようになりました。放火事件で亡くなられた方の名前もあったのでしょう。営業や物販に携わる方の名前も流れていたんだな、と新たな発見もあるものです。エンドロールは最後まで観るものですね。
上映後、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンのHPを見てみました。関係者の方々のカウントダウンコメントの重みを感じ、「愛する人へ送る、最後の手紙」の意味がわかり感傷に浸ります。
メニューから「キャラクター」のページを見ると、ヴァイオレットとギルベルトしか載ってないことに気づきます。初めから二人の物語だったんだな、ホッジンス社長かなり出番があったけどな、と思いました。
するとアニメ版の頃からのホッジンス社長の描写が視聴者に重ね合わせたものだと今更気づくわけです。
視聴者は作品を通してヴァイオレットの成長を「保護者」のように見守っています。そして物語の局面で一喜一憂します。しかしヴァイオレットの行動に影響を及ぼすことはできません。
ホッジンズ社長がヴァイオレットを特別に気に掛ける様子は作中しばしば目にします。そしてディートフリート大佐から「保護者気どりが」のようなことを言われた時にはディートフリートにつかみかかっていました。
さらに劇中では、「そういえば僕が思ったことホッジンスがそのまま言ってくれてたな...」と思わずにいられない行動が目立ちます。
意地でもヴァイオレットに会おうとしないギルベルトに向かって「大馬鹿野郎!!」と叫んだり、ギルベルトに会わず帰ろうとするヴァイオレットを心配したり、最終的にギルベルトの元に残ったヴァイオレットを我が子のように想ってヴァイオレットロスになったり、まるで視聴者の心情を映したかのような行動をとります。
しかし悲しいかな、いずれの場面でもホッジンスの言葉によってヴァイオレットの意思が揺らぐことはないのです。
ヴァイオレットとギルベルトの二人の物語にホッジンス社長という視聴者の代弁者を保護者役として加えることで、より没入感を得られたのだと思います。
京アニが事件から立ち直る最中に製作された作品である今作、製作陣の努力が伝わってくるとても素晴らしい映画だと思いました。
映画の特典は「ベネディクト・ブルーの菫」でした。外伝のもそうだけど他のも読みたい...。メルカリで高額で買うのはアレだし書店で売ってほしいな...。
吐き溜め
久しぶりです。
自分もですが世間はコロナの自粛ムードで鬱憤が溜まってきている感があります。
テレビを見れば「コメンテーター」が世論を操作し、Twitterを見れば政府に不満が募った人たちがあふれかえっていて正直Twitter見るのも疲れます。でも近況報告も兼ねてるからTwitter止められないんですよね。
自分が気に入らなければ一つ文句も言いたくなるのが人間というもの。それがコロナで激しくなったともいえますね。
今回はコロナは関係ないです。これです。
「ファミリーカー(4WD450馬力)(0-100km/h加速4.1秒)(最高速度280km/h)(価格1218万~)」のAudi RS4の広告に賛否両論っていう記事です。
Twitterで見かけた時思わず「?????」とツイートしてしまいましたが、今見ても「?????」しか出てこない。
見ると「子供のポーズが挑発的」とか「バナナが性的な物を連想させる」とか「車の前に子供が立つと危険」とかいう批判が出てるらしい。結果Audiは広告を撤回。ため息しか出ん。
まずお前ら普段からどんだけ性的な目で見とるんや。女性がただバナナ食っただけで性的に感じるんですか?感じるんでしょうね。ツイフェミさんこっちです。
それに、明らかに家の駐車場ってわかる構図なのに「危険」ですか。子どもが車にもたれ掛かるのも駄目な息苦しい世の中になってしまったんですか。残念だなぁ。
とはいえAudiが撤回するほど批判が多かったんでしょうね。自分はこの広告見て危険だなとか、性的だなとかは全く感じなかったし、むしろ撤回後の広告よりカッコいいと感じた。
個人的にはこういう批判のせいでどんどん広告の表現が制限されていくのはとても悲しいですね。
普段ならこのくらいの事ならTwitterにちょちょっと書いて終わるんですが鬱憤晴らしと更新も兼ねて書いてみました。
締め方が思いつかないのでこれで。では。
完全ワイヤレスイヤンホホを買った
前から左右分離型の完全ワイヤレスイヤホンが欲しかったので買ってみた。
買ったのはAnkerのSoundcore Liberty air 2という商品。値段は8000円ちょっと。
「うどん型」と呼ばれる下に棒が付いた形状。耳から外しやすい。
所感をざっと書いてみると、
・質感は高い
・ホワイトノイズの音は高め、音量はまあまあ。
・ノイキャンが通話中しか効かないのが残念。
・張り出しが意外と大きい。長時間つけてると耳が痛い。
・音質は悪くない(素人感)
・タッチボタンに「巻き戻し」を設定できない。ちょっと不便。
・通話音質は良いらしい。誰かTeamsで通話しよ。
こんな感じ。細かいスペックはググって。
人生初の完全ワイヤレスイヤホンを手にしてみて
技術の進歩って凄いよね。
このイヤホンは完全ワイヤレスイヤホンってことでコードレスを実現できた。めっちゃストレスフリー。
PCに繋げてYotube観てる時に「コーヒーいれに行こ」と音声聞きながらそのまま席を離れることができる。4m位なら余裕。凄いね。
あとありがちな「イヤホンつけながら寝て起きたらコードが絡まってる」なんて事もない。断線を恐れる事もなくなった。
持ちやすい。
それにこの数グラムのイヤホンの中に
・スピーカー
・ドライバ
・マイク
・バッテリー(連続最大7時間)
・タッチセンサー
・Bluetooth関連パーツ
・その他
を詰め込んでるのに感動する。技術の進歩って凄いね。
今のところけなすポイントがあまり無い。普通に買ってよかった。
でもワイヤレスイヤホンが真価を発揮するのは屋外で使うときな気がするので、今の騒ぎが収まるのを待ちますかね。
次はもっといいお値段のやつにステップアップしたいね。
麻雀が楽しいという話
楽しい。皆もやろ?
高校生の頃部活の練習してた2-8教室の後ろのほうで先輩が手積みで麻雀やってた姿は鮮明に覚えてる。そのから麻雀やってみたいって気持ちはあったんだと思う。
大学に進んで他の高校の話を聞くと、「麻雀牌を使ってると注意されるから、トランプを牌代わりにしてバレないようにやってた」という学校もあるらしく、母校の校風が恵まれていたのだと実感した。
でも、当時の僕にはあまりにも麻雀がとっつきづらかった記憶がある。「役を作るゲーム」ってのは知ってたけど、その役の多さでまずやる気が失せ、鳴きの種類、フリテンの意味、実際のゲームの進め方等々壁が多かった。今からしたら「その程度の事」なんだけど。
大学に入ると麻雀のルールを知ってる人が身の回りに増えたから、それも麻雀を勉強するモチベーションになった。
最初は鳴かずにリーチすることだけを目標に打っていた気がする。すると自然と鳴きや他の役を覚えられるようになって、普通に打てるレベルになった。多分。
だから麻雀を始めようと思ってる読者がいれば、まずは牌の名前とリーチだけ覚えて打ってみてほしい。とりあえず鳴くな。他の役は後から覚えればいい。役満はもっと後でいい。
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麻雀の何が楽しいのか。ズバリ「相手の動きに注意しつつ、手牌(=手札)をどこまでいい手に持って行ってアガれるか」その駆け引きである。
「速さ=アガる速度」を重視するか、「打点=アガったときの点数」を重視するか、そのバランスは個人で違うため、個性が出るところである。これも面白いところ。
運との勝負もある。そもそも最初の配牌の時点で運だし。いい牌をツモらない日はとことんツモらない。でもそれは「そんな時もある」って割り切るしかない。それより振り込まないほうが大事。
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最近麻雀業界では「麻雀=賭博」というイメージを払拭する動きが強まってる。
ネット麻雀が盛んになってきて(「じゃんたま」とか「天鳳」が定番かな)、「Mリーグ」っていうプロリーグも設立されたし、雀荘に行くと禁煙のところも増えてきて「健康麻雀」を売りにする店も増えている。
実際麻雀=賭博のイメージは中高年には染みついていて、大学の長期実習中に同期と麻雀を打っていると年配の教官に注意されたりした。(もちろん賭博無し。)
でも若い教官は黙認してくれることが多かった。好感度の差はこうして生まれる。
大学の建物の玄関付近にほんっっっとに雀卓として丁度いいサイズの正方形のテーブルがあって、毛布を敷いてジャラジャラ音が出ないように配慮して打っていても、「こんなところで麻雀打ってるんじゃないよ」とキレてくる教授もいれば、ニンマリしてこっちを見てくる教授もいる。好感度の差は(以下略)
前者の教授は「麻雀は賭博のイメージがついたもので、人目のつくような場所でやるものではない」と考えているんだろう。こんな考えの人もいることを理解して、こちらもエチケットが必要なのかもしれないけど。
けどほんっっっとに丁度いいサイズなんだわあの机。あそこ以外に置いてないし。
麻雀業界のイメージ刷新に期待したい。
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さて、ネット麻雀の最大の長所は「機材を用意することなく、一人でも打てる」ということだ。
実卓で打つときは自分含めて最低でも3人集めなければならないのが地味にネックである。時間のない社会人や陰キャには優しくない。
「じゃあネット麻雀でいいじゃん」というのはエアプの意見である。実卓でワイワイ話しながら、手を使って打つ麻雀の楽しさを知ってしまうと、ネット麻雀では満足できなくなる。半年に一度は雀荘に行きたくなる。
だから時間に余裕のある学生が卓を囲むのは有意義な時間の使い方だと個人的には思う。
余談だけど手積みを経験して雀荘に行くと全自動麻雀卓の便利さに感動する。これはあるある。
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最近は3密を予防するための自粛の流れで雀荘も閉まっている。今はネット麻雀で我慢するしかない。麻雀熱最盛期だったら禁断症状が出ていたであろう。
俺、このコロナが静まったら友達と雀荘に行くんだ...
知り合いで麻雀始めたい人が居たら教えるから声かけてな。
ジブリ派?それともディズニー派?
って質問よくありますよね。自分はジブリ派です。小さいころから観る機会が多かったってのもありますが...生まれてこの方(21歳)ディズニーランド、シーに行ったこともなく、幼少期は金曜ロードショーで育ったので多分ジブリが刷り込まれてる。もはや本能。
あとディズニーは基本的に女の子が主人公なことが多くて感情移入しづらいのかなと思った。おそらく幼少期の自分にとってプリキュアを見るのと同義だった(?)のかな、と。一方でハウルの動く城とか千と千尋の神隠しも女の子主人公だけど面白いと感じるしこれもう分からねえ。本能でジブリが好きってことにしといてください。
▼(天声人語風)
最近COVID-19で外出しないことが増えたので、暇な時間ジブリ映画を観るんですよね。
皆さんジブリ映画の中でお気に入りはありますか?レッドタートルと答える猛者はいないと思いますが
紅の豚が好きな理由は単純にカッコいいから。「かつて空軍のエースだった主人公」、「隠れ家の島」、「物語途中でパワーアップする主人公の機体」、どれも男心をくすぐります。ストーリーの内容云々ではなく作品の雰囲気がドはまりしてる訳です。やっぱり宮崎駿が「動きもの」を描くと凄い。
コクリコ坂からも同様で、雰囲気で好きになったところはあると思います。でもそれがいい。スルメみたいに噛めば噛むほど旨味が出てくる映画なんですよ。ジブリ初(?)高度経済成長期の日本を舞台にした映画で、建築に造詣が深い宮崎吾朗監督なだけあって建物の描写が良い。
舞台は自分が生まれてもいない時代だけど、どこか懐かさを感じさせるし「携帯電話も無い、現代より明らかに不便。だけどいい時代だな」、そう感じさせる最高のアニメです。
カルチェラタンなんてその最たるもので、高校生の頃陰の者だった自分にとってキラキラして見えます。クラブハウスなんてなかったですからねうちの高校。あの住人になりたい。あとメルみたいな素敵なお嫁さんが欲しい。
▼
宮崎吾朗監督ってジブリでは「ゲド戦記」と「コクリコ坂から」の2作品しか出してないんですよね。ネットでは作品の評価もあまり高くないっぽいんですけどそれって父親と比べられてる部分が少なからずあると思うんです。駿と比べるのは酷じゃない...?
でもそれぞれ良い所があるんだし、宮崎駿も自分の感性と違うからダメ出ししたくなる気持ちもわかるけど、個人的には吾朗監督作品好きだしもっとジブリで作品出してほしい。もっとスルメをくれスルメを。
飽きたから締めよう。
おすすめの雰囲気アニメ(映画)があったら教えてください。暇だったら観るかも。
仮面ライダーを視聴する一般男子大学生
仮面ライダーって小学生が観るもんだと思ってるそこのあなた。考え直したほうがいい。世の中にはいい歳してプリパラ観たり、プリキュアにハマる男性もアイカツおじさんもいる。Youtubeでアイカツのライブ映像検索してみろ。広いホールで開催されてるし、観客に野郎しかいないぞ。実際良い曲多いし。
いい歳した男性が女児向けアニメや仮面ライダーを見ても恥ずかしがることは無いと今では思う。ネットには同志がたくさんいる。
自分も小学生の頃密かに「クッキンアイドル!アイ!マイ!まいん!」とか「味楽る!ミミカ」とか観てたけど恥ずかしくてとても周りには言えなかった。でも高校で話の通じる人に多数出会えた。まいんちゃんが同い年だってそこで知った。
女児向けアニメだろうと女児向け料理番組だろうと恥ずかしがることは無い。胸を張って視聴しろ小学生男児。まいんちゃんをすこれ。
何の話だっけ。
そう、別に成人男性が仮面ライダーを観ることは悪い事じゃないし、大人でも楽しめる要素があるからこそ自分も見続けているのだと思う。
僕は「響鬼」「カブト」「電王」「キバ」を子どもの頃リアタイ視聴していて、「ディケイド」以降「ビルド」まで離れていたが、「ビルド」中盤以降観出して今も「ゼロワン」をリアタイ視聴している。
好きなライダーの話をすると、「電王」の2号ライダーにあたる「仮面ライダーゼロノス」が最推しだ。変身待機音ヤバく格好いいから聴いて?
和風な待機音なのはおそらく牛若丸と弁慶がモチーフ(と言われてる)なのも一因。
ゼロノスの何がヤバいってその変身方法。簡潔に言うと、変身する度、周囲の人間から変身者(桜井侑斗)に関する記憶が消えていくという鬼畜仕様。故に変身できる回数に上限があるし、「回数の上限に達する=すべての人に忘れられる=変身者の消滅」なんですよ。もうヤバくないですか?
しかも変身者である桜井侑斗、主人公のお姉さんの婚約者なんですよ...。はぁ~...。
話が複雑なので詳しくは本編なりWikiなり見てほしいんですけど最終フォームに変身するために侑斗は婚約者との記憶までも犠牲にして戦うんですよね...。脚本家は人間じゃない。
ちなみにゼロノスは本編の後も劇場版で度々変身してるわけですが、「視聴者が忘れない限り桜井侑斗はいなくならないから変身できる」という解釈があってこれまた素敵すぎる。好き。
閑話休題。
大学生になって仮面ライダー熱が再燃してきた僕がスタートから観始めたのが平成仮面ライダーの集大成となる「ジオウ」。正直最初はビジュアルに度肝抜かれた。なんだこれと思った。
けどやっぱ慣れなんですよね。中盤以降なんとも思わなくなった。
ジオウの特徴は冒頭に「主人公が最低最悪の魔王(オーマジオウ)になる」という結末が提示されて話が始まる点。
ストーリーの大枠は、「ウォズと名乗る謎の男から突然『使い方はもうご存じのはず...』とベルトを渡された主人公が、過去の平成ライダーの力を集めながら怪人を倒していく」というもの。
高校生の主人公は最高最善の王になると心に決めて過去のライダーの力を集めていくんですが、仲間の死を経て結局オーマジオウに変身してしまう。
ラスボスを倒した主人公は「仲間のいない世界で王になっても意味が無い」とその力で世界を作り変える。
物語は主人公が仲間たちと平和な高校生活を送る様子と、それを陰から見守るウォズを映して幕を閉じる。めでたしめでたし...。
劇場版 Over Quartzerでは、アナザーエンドとして、特別なフォーム(ジオウ オーマフォーム)に変身してラスボスを倒し、令和のライダー「ゼロワン」にバトンを渡して終わり。めでたしめでたし...。
...小学生だとここで終わりますが、考察好きな大人は発想を膨らませます。
・ジオウは実はループもので、主人公は何度も世界をやり直している⇒「平成」が終わることが無い。
・ウォズの「使い方はもうご存じのはず...」←以前にも繰り返しがあったのでは?
・劇場版 Over Quartzerこそトゥルーエンドで、「平成」に区切りをつけてゼロワン(令和)にバトンを渡している。
ここまで考えられるのは大人だからこそだと思うんですよね。
あとジオウには「平成ジェネレーションズ FOREVER」という劇場版もあるんですが、お約束のレジェンドキャストとして「電王」の佐藤健がサプライズ出演してるんですよね。劇場によっては歓声が上がったところもあるらしいです。僕も変な声出た。
でも「電王を見てて佐藤健が刺さる世代」って、丁度僕と同年代(20代)か、仮面ライダーファンか、子どもの付き添いで観に来た親御さんなんですよ。僕が見に行ったときは電王世代じゃないちびっ子が多かったためかあまり声は聞こえてきませんでした。残念。
つまりストーリーにせよキャストにせよ色んな人に楽しんでもらえる工夫がなされてるんですよね仮面ライダーって。もう子ども向けとは言わせない。
放送中の最新作「仮面ライダー ゼロワン」も、デザインのモチーフがバッタに回帰して親しみ易くなりつつ、ストーリーは「AIと人の共存」をテーマにしていてなかなかタイムリー。「腹筋崩壊太郎」など、登場する個性豊かなヒューマギア(AI)も併せて観ていて飽きない。
しかも意外と知られていないけど1話30分という丁度良さ。パッと観れる。
そんな感じで僕は沼にくるぶしまで浸かった状態です。少しでも気持ちが伝わったら嬉しいな。
ではまたノシ
鉄道が好きです。
「オタク」と「ファン」は似て非なるものであるというのが持論だ。
その差は「熱量」にあり、その関係は「オタク」>「ファン」であると考えている。
曖昧だが、オタクは「熱中している人」、ファンは「好きな人」というイメージだ。
オタクはより多くの熱量をかけている、というと聞こえはいいが、その熱量故に周りが見えなくなり、迷惑をかけていることに気が付かない(フリをしている?)のもしばしばである。
例えば「鉄オタ」。最近でも山手線E231系が引退間近になったとき、一部の鉄オタの線路侵入やマナーの悪さが際立ち、JRの判断でE231系の引退が早まるという前代未聞の事態が発生した。
引退間近の車両を撮りにホームに押し寄せる彼らは特に「葬式鉄」と揶揄される。しかし「鉄オタ」の分類など一般人は気にしない。一部の「撮り鉄」のマナーが悪くても「鉄オタ」全体の印象が下がってしまう。これは鉄道に限った話ではないが、一部の人間の行いで全体が悪くみられるのはよくあることだろう。
まあ標本調査はそれが原理だし...。
僕は非常に飽きやすい性分で、興味がある事柄がコロコロ変わる。「趣味」と自信を持って言えるものも思いつかない。しかし鉄道だけは幼少期から唯一好きな物である。僕はグッズを買ったり、遠くまで乗りに行ったり、写真を撮りに行ったり、ラストランに乗りに行ったりは基本的にしない。
なぜならインターネットという便利なものがあるからで、大抵の情報はネットで手に入ってしまう。わざわざ外に出て金を払うことなく楽しめるのがいいところだ。
僕は分類するなら「音鉄」で、車両の走行音や駅で流れる発車メロディーなどを聴いて楽しんでいる。今やyoutubeには十分過ぎるほどの「音動画」があり、外に出なくても楽しめてしまう。いい時代だ。
しかし僕は自分を「鉄オタ」とは名乗らない。オタクを名乗るほどの熱量が無いのは自覚しているし、前述のとおり悪い印象を抱かれる可能性もあるからだ。「鉄道ファン」と名乗ってもいいのだが、この界隈で「鉄道ファン」というと月刊誌を思い浮かべる人が多いので名乗らない。
近年サブカルチャーの普及によってオタクの概念が一般化しているのは事実である。例えば鬼滅の刃。LiSAが紅白で紅蓮華を歌い、情報番組では髪を鬼滅カラーに染める人が取り上げられた。そういう人たちを疎まず、認められる社会になるのはいいことだと思う。しかし、一部の鬼滅の刃オタクが「これ鬼滅のパクリじゃん」などと意味不明な主張で他者を攻撃し、迷惑をかける行為もTwitterで見受けられる。
一般社会が「変わったものが好きなオタク」を認めるように、オタクも「〇〇に興味が無い一般社会」があることを認めなければならない。それが「多様性」でしょ?
その多様性も「お互い自分たちに害が及ばない」という前提の下成り立っているものであると思う。つまりコミュニティーの外に棘を向けてはいけない。楽しむなら他所に迷惑をかけず、内輪で楽しむべきである。
難しいのが「にわか」の存在だ。言うなれば一般社会からコミュニティに足を突っ込みかけている人たちで、完全なオタク・ファンに成り切れていない人たちだ。気持ちはわかるのだが、新しいものを知った喜びを無理矢理押し付けたり、中途半端な知識のままで他所にもコミュニティにも迷惑をかける行為はあちこちで見られる。
しかし人間だれしも最初はにわかである。だからこの言葉を贈ろう。
「半年ROMれ」
自分もそうだが「にわか」が「オタク・ファン」を名乗る時はコミュニティの一員であることを理解し気を付けなければならない。
「鉄オタ」の話に戻ろう。葬式鉄の「罵声大会*1」や撮り鉄の敷地内不法侵入などは鉄道好きから見ても気持ちのいい行為ではないし、列車の運行の妨げとなって一般の利用者に迷惑がかかる。
このようなことが無くならない限り、「鉄オタ」が社会に認められることは無いと思っている。しかし、迷惑行為が無くなることはないだろう。なぜなら張本人たちは「鉄オタ」がどう思われようと自分さえ良ければそれでいい人たちなのだから。
お前らはガルパンを見習え。
それでも僕は心の末端の末端で、自分が鉄オタだと自信をもって言える日が来るのを待っていようと思う。それまでは熱量を蓄えつつ、「鉄道が好きです。」と控えめに名乗ることにする。
*1:ラストランや特別列車の運行時には、良い写真を撮るため構図の邪魔になる人に向けて鉄オタ同士で罵声を浴びせあう光景がよく見られる。JR東も対策を取ったことがあり、「トランスイート四季島」初運行時にはホームにはメディア以外の立ち入りを禁止、さらに反対側ホームにわざわざ回送列車を置いて四季島を見えないようにして鉄オタを排除した。